釈迦牟尼仏 良い智恵が得られるよう拝む
佛教において、三寶佛(サンボ仏)がいます。なかでも、大寶は釈迦牟尼仏(大定力ー出家)、二寶は観世音菩薩(大慈悲―濟世)、そして三寶とは普賢文殊菩薩(大智慧―渡人)のことをさしまう。この三寶佛(サンボ仏)は佛家の中でも最高地位にあり、人々が幸せに生活をするのに必要な三種の智慧と言えます。
釈迦牟尼仏は佛教の精神的リーダーであり、中国に渡ってから、道教でも釈迦牟尼仏を敬拝する神様の一つとし、困難に直面した際は釈迦牟尼仏に智慧をいただき、奇跡を作り出せると考えています。
釈迦牟尼仏は紀元前623年に生まれ、彼の父はカピラバストゥの国王であり、英明で、慈悲深い指導者でした。母は摩耶夫人もとても賢い方でした。摩耶夫人は四十五歳で懐妊され、ランビニオンで太子を出産したと言われています。伝説によるとこの太子は生まれて間もなく7歩あるけたと言われ、更に足を踏んだところには7輪の蓮の花が咲いたと言われています。その頃の彼は四方を見上げるやいなや、片方の手は天を指し、もう片方の手では地面を指し、独り言のように「天上天下、唯我獨尊」とつぶやくと、天から花びらが舞い落ちたと言われています。太子は吉祥と全ての功徳が報われるという意味を込めて「シッダールタ」と名付けられました。
七歳になったシッダールタは学びはじめ、十二歳のころにはすべての学問を博通していました。続いて、彼は兵法や武術も学び、水を得た魚のようになるまで鍛錬しました。十六歳になると、シッダールタは父の命令により結婚し子供を1人もうけました。とても豊かで心地よい生活をしていましたが、何も楽しくありませんでした。彼は当時の階級分けされたインドの不平等な状況が好きではありませんでした、内心では人々の事を思うと胸が痛んでいました。毎度シッダールタが宮殿の外へ外遊にいくと、平民や百姓が老いて、病んで、死にゆく様子を目の当たりにし、いつも心の平静を保つことができませんでした。彼は常に、どうやってすべての人々がこの苦しみから脱することができるかを考え、どんな方法で彼らに永遠の平和と快楽の日々をもたらすことができるのかを考えていました。
このような苦痛が彼の心の中に常に存在し、二十九歳の年み彼は何不自由のない快適な宮殿での生活を捨て、彼が生まれもって得てきた富をも捨て、今まで培ってきた人とのご縁や絆を絶ち、1人深い山の中へ移り、人生の道理を探す旅にでました。
それからの数十年、シッダールタは人々が円満で幸福な生活をする上での道理を見出し、とめどなく弟子たちにそれを伝え、世間に広く知れ渡るようにしました。それから、人々がどんなに喜怒哀楽に直面しても、対処する態度や対応する方法を見つけ出せるようになり、傷みつけられていた魂たちは平静を取り戻すことができるようになりました。
参拝するタイミング
一年に一度ある浴佛節(花まつり(甘茶かけ))に参加する以外に、いつでも両手で釈迦牟尼仏をさわり拝むことができます。その際、心では智慧を授けてくださることで人生が円満になれることを祈願してください。
浴佛節は釈迦牟尼仏の誕生日にあたる旧暦四月八日に行われます。この日、佛教団体は大規模の祭典を行い、釈迦牟尼仏を記念し、更に彼から授かった道理を広めるようにします。なぜ浴佛節というのでしょうか?それは釈迦牟尼仏が誕生した際、7頭の龍が彼の為に聖なる泉を引き沐浴をさせたと言われているからです。毎年釈迦牟尼仏の生誕を記念して、この儀式が行われます。屋内、屋外どこで開催されても、必ず釈迦牟尼仏の神像があり、主催者は明かりをつけ、お線香をあげ、お供え物をし、お辞儀をしてから、触れ、全員でお経をあげ、鐘や太鼓をならし、釈迦牟尼仏が全人類においての貢献は偉大であることを讃えます。実際、浴佛の最大の意味はこの日人々が今まで自分がしてきた行いを振り返り、善悪に分別をつけ、これから先の未来が明るく幸せな方向に進むようするためです。