天上聖母(媽祖) 前途に光をともし、平安を保つ
海神娘娘の名は林黙娘、またの名は「媽祖」もしくは「天上聖母」。天上聖母をお祀りする廟は中国海沿いから東南地域に分布し、台湾だけでも五百以上の媽祖廟があり、信者は一億人を超すと言われ、海岸沿いに住む漁民たちが必ずお祀りするだけでなく、一般大衆もまた媽祖へは深く崇拝し、各地の媽祖廟に設置されている香炉の火の勢いは他ではないくらいすごく、宗教への影響力が非常に大きいことが伺えます。
台湾民衆の媽祖にたいする敬虔な尊敬、崇拝の念が一番よく映し出されるのが毎年旧暦の3月23日の媽祖生誕の日です。台湾全土において大規模の巡礼の儀が行われ、各地から参加しにきた信者たちが媽祖の神輿の後ろについて巡礼をし、媽祖の庇護をいただけるよう祈願します。とても熱狂的なこの巡礼の儀は台湾では一大イベントとして扱われています。
伝説によると、海神娘娘媽祖は漁師の家に生まれた林黙という娘で、生後泣くことはなかったことから「黙」と名付けられ、大きくなってからは黙娘と呼ばれていました。黙娘は海辺で育ったこともあり、泳ぎにたけていたことから、よく海上で事故にあった商人や漁師を救助しにいっていたと同時に、黙娘は気象に関する知識が多少あったため、彼女の天気予報は十中八九当たっていたそうです。これだけでなく、彼女には医薬の常識も備わっており、人の病を治すこともしていたことから、村の人々は吉凶が予知できた彼女をとてもかわいがっていたこともあり、最終的には神として崇められるようになりました。
黙娘は二十代になっても家庭に入ろうとせず、海で困った人々を救助することに一身を注ぎました。あるひ、彼女は救助にいった先でなくなってしまいました。二十八歳の時でした。村の人々は村のお堂を修繕し、彼女を記念し、讃えました。これが最古の海神廟の由来とされています。
それから、人々の間では官民船問わず、海上で危険な目にあっても黙娘のパワーが発揮されたことで、危険を脱することが出来たと多く伝えられています。こうして、海神黙娘の話は瞬く間に広がり、時の皇帝の耳に入り、自ら神号を与えられたそうです。
宋朝の徽宗が「順濟」と書かれた額を賜ったのをかわきりに、清朝康熙時代には天后として封し、封祀の儀を執り行いました。毎年春と秋のには遣いを台湾の台南と福建の泉州、湄州などの地の天后宮に送り祭を執り行ってきました。嘉慶五年(西暦1800年)においては「護國庇民妙霊昭応弘仁普濟福佑群生誠咸感孚顯神讚順垂慈篤佑天后之神」に冊封されました。その号は三十二文字という長さでした。
口訣(唱え言葉)
お線香に火をつけ、氏名、旧暦の生年月日と干支、住所、金紙とお供え物を天上聖母へ捧げることを伝え、家族全員の健康と平安、万事順調に進むよう祈願します。
参拝日
毎月一日、十五日または旧暦三月二十三日の天上聖母生誕の日。
媽祖の由来は色々あり、中国湄州では「湄州媽」、中国同安では「銀同媽」、中国泉州では「温州媽」などなど、このほか「大太平媽」、「班鳩媽」や「船頭媽」など異なる呼び名がありま
す。それと同時に、像のタイプや色の違いから、「玉面媽祖」、「金面媽祖」や「烏面媽祖」など三つの呼び名もあります。どの呼び名や像のタイプであろうと、媽祖の信仰は広範囲に広がっていることがわかります。
参拝方法
①火を通した三牲、果物、花、餅菓子、紅亀粿、お茶3杯をお供え用のテーブルに用意します。
②お線香に火をつけ、心を込めて祈りながら、自分がお供え物と金紙を天上聖母のために用意したことをつたえ、家族の平安と健康、万事順調に進むよう天上聖母に祈る。
③お線香が2/3燃えたら、お供え物用のテーブルにある紙銭をとり三拝後、燃やします。